フィジー

■BULA VINAKA!LAUTOKA CITY(こんにちは! ラウトカ) 2007.6.19 update

フィジーは、4つの政府所在地(division)という行政区画に分けられていて、中央地域(首都)がCentral Division(スバ、Suva)、北部地域 Northern Division(ランバサ、Labasa) 、東部地域 Eastern Division(レブカ、Levuka) 、西部地域 Western Division(ラウトカ、Lautoka)とされています(群島北部のロツマ島は、保護領)。

Lautoka(ラウトカ)は、ヴィティレヴ島(フィジーで最大の島)の西側に位置し、ナンディ国際空港から約25km北へ向ったところにある。街中も緑が沢山のラウトカは海外からの客船も停泊する港町。また一部のリゾートアイランドやクルーズ船の発着地ともされている。またフィジーの主要産業の砂糖の精製工場もあることからSugar Cityとも呼ばれている。

中心部のメインストリート沿いには、土産物店や洋品店に雑貨店、レストランにカフェ、銀行に、ババ、ラキラキ北方面やナンディ、スバ方面への離発着地点となるバスターミナルと隣接するマーケットは、ナンディタウンのマーケットの3倍はあろうかという規模の大きなもので、野菜、果実に鮮魚やカバ、民芸品までが売られている。期日は毎年未定ですが、8〜9月の何れかにはシュガーフェスティバル(ラウトカ祭り)も行なわれます。

そんなラウトカで、5月26日(土)、チャーチルパークに在る競技場で、1999年以来8年ぶりに日本代表チームとフィジー代表チームでの『IRB PACIFIC NATIONS CUP』(公式戦)が行なわれましたが、試合前日の25日、日本代表チームはナンディ郊外の墓地を訪れていた。その理由とは・・・。

フィジーはラグビーを国技とする世界でも数少ない国なのです。そこで子供の頃からラグビーに親しみ育ったフィジアン選手層の厚さは世界でも有名で、世界各国で外国人選としてプレーをしている。その一人だったのが、Patiliai Tuidraki/パティリアイ・ツイドラキ(以下ツイドラキ氏)。ツイドラキ氏は1999年のワールドカップ(W杯)ではウェールズ戦でトライを挙げるなど、フィジー代表選手としても有名。前回1999年に同ラウトカで行なわれた『Pacific Rim Championship』にも日本代表チームのウイング(No.11)選手として出場していた。結果は日本チームの大敗で、ツイドラキ氏は日本代表選手として、母国フィジーでの1勝を上げることはできなかった。

その後、フィジーに帰国。2002年に急性心不全のため33歳の若さで亡くなり、そのラグビー人生に幕を閉じたのです。フィジアンらしい陽気で明るく、両国との架け橋的存在だった元日本代表のツイドラキ氏(1997〜2001年まで日本でプレー)。日本代表チームがナンディ郊外の墓地を訪れたのは、同氏の冥福を祈るのが目的だったのだ。

翌26日の試合は15-3と日本代表チームがリードのまま後半に移りましたが、結果は15-30とフィジー代表チームの勝利で終わりました。今回の JAPAN=FIJI戦は、ツイドラキ氏帰国、死去後初のフィジーでの日本戦ということでフィジーチームの応援もさることながら、日本代表チームの応援にも沢山のフィジアンが参加しスタンドは大盛り上がり。日本代表チームにとっても我々在日本人にとっても、フィジーとの意外な繋がりを知る思い出に残る試合となった。

【フィジーのラグビー】ラグビーが国技である数少ない国のひとつということは上記でもお伝えしましたが、その他にニュージーランド、ウェールズ、サモア、トンガ、クック諸島もそのうちのひとつ。幼児期からフィジー版「鬼ごっこ」で慣れているのか、最近では女性ラグビーも盛んになりつつあります。フィジー版「鬼ごっこ」とは、日本とは逆で、鬼が数人から追いかけれ、タッチをされると負け。これってラグビーでボールを持って逃げている姿を想像できませんか?

フィジーへのラグビーの伝来はヴティレヴ島、バ・エリアを統括していたヨーロッパのMilitary policeとFiji armyにより行われた試合が最初と言われ、これを報じたプレス誌によりさらにラグビーが浸透。しかし、当時はまだほとんどのチームは海外駐在員のプレーヤーが中心だったそうです。

1904年フィジーの警察と軍隊により正式に登録されたフィジー最初の公式戦が行われるようになった。1907年には3人のニュージーランド選手がスバのアルバート公園で試合を行ったが、そのプレーと指導力はフィジーラグビーを形成する基礎となる。1911年の英国軍艦の訪問にあわせ船員との試合に備えるため、フィジーで初めて「クラブ」が誕生した。

1913年、現在の首都スバにホテル建設のため、ニュージーランドから建築技師等が来島、その中の一人がオタゴの元の監督、シェーハン氏だった。シェーハン氏はフィジーを訪れると同時にフィジーでのラグビーの必然性を見抜き、パシフィック・クラブを創設し、クラブ ボードのミーティングでは、多数の「クラブ」立ち上げ計画案が検討され、その結果、パシフィック・クラブ、士官学校、レワ・クラブの3つのクラブが正式に発足された。

後には、これら3クラブが「Fiji Rugby Football Union」の前身となる。シーハン氏は会長に任命され、当時の総督アーネスト・ビッカム・エスコットは、クラブ選手権開催に尽力し、エスコット・シールド杯を寄贈。この大会は、現在に至る約100年、スバ協会主催の大会として現時でも引き継がれている。

1914年にはラトゥー・エペリ・ガニラウ大酋長により「フィジー・ネイティブ ・ラグビー協会」が発足し、タイポウ・クラブ、タリレレ・クラブ、ヒル・クラブ、ポリス・クラブの参加でフィジアンによるフィジアンのための大会が初めて開催され、1915年にはデービス・カップを創設し、新たな大会を開催。同年、「フィジー ネイティブ・ラグビー協会」は「フィジー・ラグビー・フットボール協会」と提携した。

フィジー代表チームの最初の海外遠征は1924年8月のトンガ行遠征。途中サモアへ立ち寄りアピアでのサモア代表チームとの試合が、事実上フィジーラグビー史に残る最初の国際試合だった。ゲームは船の時間の都合で早朝7時にキックオフとなり、試合の結果は6-0で、フィジーがこの日初めて国際試合で勝利を飾った。現在のフィジー代表チームのユニフォームの原型となるココナッツのロゴマークの入った白いユニフォームを着けたのが、1926年、二度目の海外遠征ニュージーランドで行なわれたオークランド大学とのゲームからといわれている。

1929年には「フィジー学生ラグビー協会」が発足。1938年ニュージーランドチームがフィジーへの最初の外国遠征チームとして来島。この時、フィジーの選手は初めてシューズの威力を知った。それ以降、試合途中で履き慣れないシューズを脱ぎ捨てる習慣を止めたという。

1939年ニュージーランドへ遠征したが、フィジー選手は到着後も裸足の習慣が忘れられず、ニュージーランド人はそれを見守っていたと伝えられている。初めての大観衆の前でたじろぎ、シャイなフィジー選手であったが、試合が始まると自由奔放なプレーは観客の度肝を抜いたそうで、ハミルトンでの最終戦ではフィジーラグビーの素晴らしいゲーム運びで14-4と衝劇的な勝利を飾った。

「ハミルトンでの試合の中ではもっとも見ごたえのあるエキサイティングな試合だ。フィジーのラグビースタイルは、ダイビングしながらのパスなど、まるで創造の域を超えている。そして選手は試合を大いに楽しみ明るい。また、時には稲妻のように駆け抜け、輝いたフィジーのプレーには興奮した」、「フィジーが世界ラグビーにおいて、大きな役割を果たすことは運命づけられた」と各紙が称えたほどだったそうです。結果は7勝1分、フィジー近代ラグビーの幕開けともなる海外遠征だった。

この遠征から、試合前の、「タイボボ、タイボボ」という掛け声ではじまる勇壮なパフォーマンス「シンビ」が行われるようになった・・・と、まだまだ続きはありますが、フィジーのラグビー熱は現在でも相当のもの。国民の80%はラクビー中継を観るのではないかと言われるほど。フィジーに来られた際には、フィジアンとラグビー談義、または観戦をされてみては如何でしょうか?

画像上段右上:マーケットの入り口
画像上段左上:マーケットと隣接するバスターミナル
画像上段右下:ラウトカ市街
画像上段左下:ラウトカのメインストリート
画像中段右上:『IRB PACIFIC NATIONS CUP』が行なわれた競技場があるチャーチルパーク
画像中段左上:日本代表とフィジー代表の選手入場
画像中段右下:スクラム前の両チーム
画像中段左下:No.11 パティリアイ・ツイドラキの幕をもって応援に駆けつけたフィジアン
画像下段右上:応援Tシャツを着ての応援
画像下段左:JAPAN 15-30 FIJIで試合終了
画像下段右下:観戦後


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