■ピラール市は「ピラール共和国」 2007.4.24 update

ピラール市はパラグアイの南西端に位置しているニェエブク県の県庁・中心都市です。パラグアイ河に面していて、対岸はアルゼンチン領となっています。パラグアイで主な都市を挙げると必ず名前が出て来る街で、パラグアイに住んでいる者であれば誰もが知っているのですが、意外に訪問した人は多くありません。訪問した事がある人に「どんな所?」と尋ねますと「静かで良い街」との答えが返って来ますが、実際に訪問するまではイマイチ具体的なイメージが湧きませんでした。

ピラールと言いますとパラグアイ随一の繊維工場 がある事で知られています。以前は街の経済の大きな部分をこの会社に依存していて、企業城下町的な色彩もあったようです。聞くところではピーク時には1,800人くらいの労働者が働いていたそうですが、現在は700人程度なのだそうです。理由を尋ねますと「機械化が進んで人が要らなくなったからさ」とのこと。中国などの影響もあるようで、この辺鄙な南米の田舎までグロバリゼーションの波が押し寄せているようです。以前と比較しますとこの街でのこの会社に頼る比率はかなり下がっているのでしょう。

人口は広い県全体でようやく8万人程度、ピラールだけですと現在の人口は3万人弱(2002年で28,000人)だと思います。パラグアイの他の都市と比較して人口の伸びは非常にゆるやかなようです。この街の人に理由を尋ねますと「仕事が無いので一度アスンシオンやアルゼンチンに行くと戻って来ない」からだそうです。若い世代を中心に社会的人口流失は進み、引っ越してやって来る人がほとんど居ないのが実情のようです。それでも子供は多く自転車で通学している学生の姿をよく見掛けます。

隣の県であるイタプア県の県庁エンカルナシオン市は欧州・日本などからの移住者が多数住んでいますが、このピラールは対照的に昔からこの街に住んでいる人の町、要するに「パラグアイ人の町」と言えます。かなり古くから代々住んでいる人ばかりでよそ者がほとんど居ないのが特徴。アジア系の住民も数人なのだそうで、日本人が珍しいようで街を歩きますと多くの人から注目を集めます。「自分は外国人」という事はアスンシオン市を歩いていて意識する事はありませんが、ここでは異邦人の気分になります。

ピラールの名前は「要塞の支柱」というような事から来ているようです。この街は1779年ポルトガル人のペドロ・メロによって創設されたもので、最初はポルトガル人の要塞であったようです。確かに大河ラプラタ河がパラグアイ河とパラナ河に分かれてパラグアイ河を少し遡った地点であり、守備の要であったのでしょう。

現在、アスンシオン市からピラール市に行く場合にはエンカルナシオン市へ向かう国道一号線を230キロ、ミシオネス県の中心都市であるサン・イグナシオまで行き、そこから4号線に入り130キロほど行きます。この国道4号線は長い間舗装されておらず、全線が舗装されたのは今から8年前、ワスモシ大統領の頃なのだそうです。

現在でも交通量は少なくほとんど自動車が通らず、割合に平坦な道がピラールに向かってほぼ直線になっています。サン・イグナシオからしばらくミシオネス県内はほとんど牧場で、更にニェエブク県に入りますと湿地帯と潅木が広がっています。

ピラール市は外界、他のパラグアイの地域から隔絶されているような状況にあり、地元の人の話では「ピラール共和国」と揶揄しているそうです。顔見知りばかりという事もあり、治安はパラグアイの中でも最良との事で自動車の盗難などは聞いた事がないそうです。自動車は窓を開けて鍵を付けたままで駐車しているものもあり、非常に治安が良いと実感しました。のんびりと過ごすには最適な場所かも知れません。昔のパラグアイは全土がこのようなおおらかな雰囲気であったのでしょう。

特に有名な観光地はありませんが、花や樹木が多く自然に恵まれており、のんびり過ごすには最適な場所かも知れません。街から外界に行くには国道1本だけしかなく、いうなれば袋小路のようになっていますので、通り抜ける人も多くなく、バックパッカーも少ないようです。ただパラグアイ河・対岸のアルゼンチン領の街との間で「渡し舟」があるそうです。

この街でのんびりと過ごし、田舎の渡しでアルゼンチンに渡る・・日本の若者の皆さん、そんなノスタルジックな旅をしてみては如何でしょうか? パラグアイの本当の良さを体験出来ると思います。


画像上段右上:国道4号線・ニェエブク県の景色
画像上段左:パラグアイ随一の繊維工場
画像上段右下パラグアイ河の様子
画像中段:ピラール市内の様子
画像下段左上:砂道
画像下段右上:花や樹木が多い
画像下段左下:ピラール市内には学校が多い
画像下段右下:学生達


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