■調査旅行 2007.7.3 update

この間、調査旅行に行っていた。場所は、ポーランドとベラルーシとの国境地帯(表示される地図の右上隅のあたり)。Svityaz村の保養所に拠点をおいて、国境の沿い村々を回った。ここは、有名な湖地帯で、保養地としても名高い。毎日、仕事の後に湖で泳いだ。部屋代はいろいろあるが、一日1,000円。透明度の高い湖で、森に囲まれたところだ。

この地は、一時期ポーランドの支配下にあり、かつてはいたポーランド人も歴史事件のなかで追い出されたりした。また第二次大戦時には、ドイツ軍に焼き払われ、多くの人が犠牲になった。かつていくつかの村にはユダヤ人も多く暮らしていて、ポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人はそれぞれ調和しつつ生活を営み、目立った争いもなかったようだ。ユダヤ人に関しては、関係を悪く言う者はいなかった。ポーランド国境沿いの村では、いまだに1,000人以上にユダヤ人が村はずれの谷に埋められたままであった。今では林と草原となっている。まだ慰霊碑などの話も進んでいない。

人々はあくまでも素朴で、明るくそして穏やかだった。村の古老に話を聞き、学校で児童と会う。それぞれの学校は、なんとかよい教育をと知恵を絞っていた。村の歴史、かつての人物や村の歴史を尊ぶ資料室が学校に必ずあり、そこには民族衣装やかつての生活用具が置いてある。

村を歩くと、どんな人でも、子供でも挨拶を欠かさない。もちろん、「異人」、「他人(村外の者)」への視線はあるが、自分の村に非常に誇りをもっており、一応に事情知ると歓迎であった。過酷な歴史を経た地域であったが、人々は自分たちの生活を守ってきた。自然・家族・家畜というかつて日本にあった当たり前のつながりがしっかり残っている。基本的な生活は、100年前とさして変わっていない。大きな違いは衣装が違うことだ。もちろん、外国人がのこのこいって、簡単に村に溶け込めるものではない。それにはウクライナ人の気質、ウクライナ語の言い回しを心から身につけないと難しいだろう。

かつて、そしていまでもウクライナ人、ベラルーシ人、ポーランド人と人々は、かなり明確にアイデンティティを認識していた。言葉の問題はないにもかかわらず、両民族の結婚による混交は、非常に稀な事であったようだ。文化への意識の差が厳然とあるようである。

ポーランド国境にいくまでにプリピチャ川沿いを通っていった。この川の終着点は、いわずと知れたチョルノーブリである。ウクライナを横に横断し、一時ベラルーシを経由してドニプロ川に注ぐ。

原発事故で、東スラヴ民俗の宝庫たるポリーシャ地域は、その半分を失った。原発の地は、東スラヴ民俗の発祥の地のひとつに数えられるぐらいの重要な地であった。大きい割にはいまだ取り残された島のように、ポツンとヨーロッパにあるこの国であるが、村の人々を話していくと、ウクライナの底力を実感する。容易に崩れないが、容易に変わらないというウクライナの社会・文化の姿を知らされる。

画像上右:資料室で様子を見に来た児童たち。この資料室はすばらしかった。
画像上左:ある村の学校。この中に図書室などもある。とにかく小さく、回りはステップ(草原)が広がる。
画像下右:調査風景。家を訪ねて話をきく。真ん中のおばあさんは1928年生まれ。隣が旦那さん。姉さん女房である。いろいろ言い伝えを語ってくれた。回りではアヒルが歩きまわっている。
画像下左:夏の台所といわれる小さな夏家(庭に作った離れ屋)。

【短信】今回の調査は、国境地帯のウクライナ人の民俗を調べるためのもの。ウクライナは、四方を多くの国々に囲まれており、歴史的に他民族との交流が盛んでした。頑なに自分たちの文化を守る反面、他民族の珍しい文化が伝えられていたりもします。興味深かったのは、ポーランド、ベラルーシなど、兄弟民族でありながら、彼らなりに厳密に生活習俗の差を認識していたことでした。大量に写真を撮ってきたのですが、すべてをお見せできなくて残念です。 (6/20)


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