■基盤を築いた日本人 2008.2.19 update

今年2008年は日本とインドネシアの友好50周年という記念すべき年です。戦後、インドネシアが4年あまりに及ぶオランダからの独立戦争に勝利して、名実ともに国際社会の一員になったのが、1949年12月の事。1958年、「日本とインドネシア共和国との間の平和条約」、「日本とインドネシア共和国との間の賠償協定」が署名されて発効し、日本とインドネシアとの間に外交関係が開設された。

2008年はそこから50周年という節目の年にあたり、この間、日インドネシア両国は、経済面のみならず、文化・人物交流の面でも幅広い友好・協力関係を構築してきました。今年は両国間で「新たな半世紀に向けて」をテーマとし、交流と世代を超えた相互理解を拡大し、幅広い分野で行事が行われる予定だそうです。

日本人が初めてインドネシアに足を踏み入れたのはいつの話だろうか。なにか当時の文献が残っているのかと思い、ジャカルタ市内の国立図書館へ行ってみた。当時の日本人生活の様子を伺える資料として当時の新聞を閲覧することができた。戦前からもインドネシア各地にも日本人が在住しており、ジャカルタ、スラバヤの主要都市には日本人社会ができていた。

日本人の南方進出は江戸時代初期に始まっていたと言われている。鎖国以前に東南アジアで名をあげた日本人としてはタイの山田長政(日本人町を中心に活躍、アユタヤ王朝ソンタム王の信任を得る)が良く知られている。失業した武士が日本人傭兵として東南アジアへ進出し、兵に限らず、大工や左官として移住したという記録も残っているようだ。鎖国以降、江戸幕府が発した鎖国令により、ヨーロッパ人との混血児は日本から追放された。「ジャガタラお春」という女性の名前は有名です。

一方、年月が経ち鎖国から解放された明治以降、貧しい生活から脱却し、南方で一旗あげたいという日本人があふれ出た。その日本人の海外渡航の先駆けとなったのがカラユキサンといわれる売春婦である。

日露戦争以降になると、カラユキサンの群れを追うような形でトコ・ジュパン(Toko Jepang=日本人の店)の名で知られる商人が盛んになる。初めはカラユキサン相手の商売から次第に住民相手に広がる。行商から始め、やがて店舗を構えるようになる。

これらの日本人の店(トコ・ジュパン)は人気が高かった。現地の人にとっては外国人だが、住民に親切であったため、現地の住民にとって印象の良くなかった華僑にくらべて受け入れられていた。トコ・ジュパンは薬品、雑貨、衣料等の生活用品、自転車、床屋、写真館、運送店などを営んでおり、太平洋戦争前には7〜8千人の日本人が在住していた。少し大きな町には華僑の商店に混じって1?2軒のトコ・ジュパンがあった。

これとは遅れて日本の商社もスラバヤ、バタビア(ジャカルタ)に進出してくるようになった。大会社の場合はビジネス街に大きな店を構える。殖産会社などの産業資本に続き外交官、銀行、船会社、商社も進出してきた。

彼らは転勤で日本へ帰ることの決まっている人であるが、それに対し、現地で小さな店からかまえて商売を始めた日本人には帰る予定はなかった。しかし日本国籍を残したままであり、家族を日本から迎え子供は日本人学校へやった。当時の日本人小学生の作文からも現地の様子がうかがえる。

彼らが残してきた歴史を調べるのは、インドネシアと日本の関係を知るうえで非常に良い機会。これらは戦前の話になるが、軍政期になると様子が変わってくる。一回のレポートでは書ききれないので今回は一部を書いてみた。今、私がインドネシアに住み、インドネシアにある日本人の存在、役目を考えた時、活躍された方々の残した事を知り、伝え続ける事が大切なのだと感じた。

話はかわるが、2008年1月27日午後、第二代大統領として32年間政権を維持したスハルト元大統領が86歳で亡くなった。日本の政財界とのつながりは深かった。街中の建物は喪に服すため半旗を掲げたが、街の雰囲気は静寂な感じはなく、いつもと変わらない様子だった。

スハルト氏は強力な政権基盤を維持しながら安定した政治体制と、経済発展を実現させた。しかし、親族や腹心の部下への不正な利益供与、政権の腐敗、体制に批判的なマスコミに対する弾圧などに対しては海外からも批判があった。

-文中の画像-
画像上右:太平洋戦争前、インドネシアに住んでいた日本人の間で読まれていた新聞「ジャワ日報」。地元インドネシアの情報や、国内の日系企業の広告等が掲載されている。
画像上左:当時、インドネシアに住んでいた小学生の作文も日本人向けの新聞に掲載されている=昭和5年(1935年)元旦発行の新聞より=。その中の作品のひとつを紹介すると…、十一月廿七日 晴天 朝早く起きて、雅子さんと散歩しました。七時一寸過ぎ四人だけ、自動車で、学校へまゐりました。昨日は遊びすぎてお勉強が出来なかつたので、先生にしかられるかとたいそう心配してゐましたら、わらつていらつしやいましたので、安心しました。そのかはり帰つてから、二日分のお勉強をしました。夕方父母とセントニコラス(*)の買い物にスマラン(**)に行きました(田中久子・第三学年)。
画像中右:インドネシア・日本人会発行の冊子。1930年元旦発行と書いてある。
画像中左:日本人会発行冊子の中身。『地方同胞訪問の旅』など、インドネシアの地方で活躍していた日本人の様子をリポート。当時、インドネシアに住んでいた日本人の様子が伺える。
画像下右上:過去の貴重な資料が保存されているインドネシア国立図書館。
画像下左上:1月27日、第二代大統領であったスハルト元大統領が死去。街中は喪に服して半旗を掲げた。
画像下右下:中央ジャカルタの自宅から中部ジャワ州で行われる国葬のため移送する車列を見守る人々(1/28)。

註(*):オランダでは、12月5日の夜にセントニコラスが子供たちにプレゼントを渡すという。また、セントニコラスをオランダ式に発音すると、サンタクロースになる
註(**):中部ジャワ州の州都


<<もどる