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9月13日、今年も約一ヶ月間の断食が始まりました。日本では、“断食”というと、一日中何も口にしないと思う人も多いようですが、実際には日の出から日の入りまでの時間だけ、ものを口にしません。つまり、日が暮れてからまた日が昇るまでのあいだは食べるのも飲むのも自由です。かといって暴飲暴食するのは、宗教的にも、健康の面からもよいものではありません。断食は、飢えに苦しむ人々の気持ちを理解するとともに、余裕のある人は貧しい人に施しをし、毎晩の断食明けの食卓を家族や友人とともに囲むことによって絆を再確認し、さまざまな場所で行われる宗教イヴェントや講話の会に参加することによって教養を深める期間だからです。
この、“貧しい人への施し”の一環として、国や自治体、または富裕層や芸能人が費用を出して断食明けの食事を振舞う習慣があります。なかでも一般的なのが“断食テント”と呼ばれるもので、今年は全国で300前後、うちイスタンブルでは100のテントが出ているとの報道がありました。これは、広場などに大きなテントが張られ、貧しい人やその夜の断食明けの食事を時間にすることができない人、旅人などが立ち寄れば無料で食事の提供が受けられるというものです。テントを張る場所は自治体などが提供し、食事の費用はその自治体の予算でまかなわれることもあれば、富裕な人などによって出されます。芸能人がその人費用を出し、そこに来たひととともに断食明けの食事を楽しむ風景は、この時期のテレビの風物詩です。
イスラームでは、信仰は神と個人の間のものであり、その間には何者も入ることはできないとされています。ですから、断食を実行するしないもその人の判断に任されています。しかし残念なことに、極端な信仰を持つ人たちによって断食をしない人たちが肩身の狭い思いをすることもあるようです。毎年断食の季節になると、実行したしないをめぐっての喧嘩や、果ては殺人に発展する事件が起きたりします。テレビや新聞では、断食は個人の問題である、誰も他者に強制してはいけないと注意を呼びかけています。
思うように食事ができないというのは人を苛立たせるもので、小さな諍いも増えます。断食明け直前の渋滞はひどく、こうした渋滞の中で互いに道を譲らない車の運転手が道路に飛び出て喧嘩をするときの第一声はこうです。「俺は断食中なんだ! そこらへん考えろ!!」
私からすれば、そんなに苛つくのなら断食などしなければいいのに、しかもそれを理由にするなんて神様もかわいそう、と思うのですが、一部の人は断食をしているということがいろいろなことの免罪符になっていると思っているようです。実際は、人と言い争いをしたり喧嘩をすると、その断食は無効になってしまう(=その徳は積まれなかったことになる)と主張する人も居ます。断食第一日目の今日、このセリフを叫びながら喧嘩する人を早速見ました。これから約一ヶ月の間、人々が喧嘩をしない穏やかな日を過ごすことを祈るばかりです。
空腹感がもたらす苛立ちとは反対に、断食には「よい事をしている」という心が人々を穏やかにするという良い側面もあります。この期間は、普段会えない友人や家族と食卓を囲む幸福感や、宗教的満足感が人々の顔を穏やかな笑顔に変えるのです。私は断食はしませんが、職場で断食明けの食卓を囲む人たちに、断食していない人たちが「神が(信仰と努力を)認めてくださいますように」と声をかけ、かけられた人たちも同じ言葉を返す風景は、とても心和むものです。私は外国人で他の信仰を持つ人間ですが、彼らにこの言葉をかけると笑顔とともに「ありがとう」の言葉が返ってきます。
この時期旅行でトルコを訪れる人が居たら、町の広場に建っている断食テントを訪れてみるのもいいかもしれません。本来食事ができない人たちのために用意された食事です。興味本位はもってのほかですが、旅人を大事にする遊牧時代の伝統を残すこの人たちは、遠くから来た旅人たちのために、すぐに席を空けてくれるでしょう。そして、一緒に食事をするときにあなたたちが抱いた感謝の気持ちは、彼らの積んだ徳となって、彼らを幸せにします。
信仰は、それが激しく深いものになればなるほど、時に人たちを間違った方向へ追いやり、そしてお互いを傷つけます。信仰が関係したさまざまな事件が人を傷つけあうことのあるトルコでの断食月は、本来はお互いにやさしくなれるよう、人々が信仰を確認しながら過ごす時期なのです。たくさんの人が、やさしく過ごせるよう、そして彼らの神が彼らを認めるよう、異国人の私もイスタンブルで祈るのです。
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