■琥珀の間 2008.3.4 update

ペテルブルグの郊外にある、エカテリーナ2世(第8代ロシア皇帝)の夏の宮殿に琥珀の間といって部屋が全て琥珀からできている恐ろしく豪華な部屋があります。今回は、この部屋の歴史についてお話したいと思います。

この部屋ができるきっかけとなったのは、1699年からプロシア王国(のち、ドイツ帝国創立の核心をなした。首都はケーニヒスベルグ)の建築長を務めていたアンドレアス・シュリュターが、ベルリンの大宮殿を再建する際に、これまで建築材としては使われたことのなかった琥珀を使うことを決めたことでした。琥珀の部屋の建設に王家のコレクションである三つの琥珀の額も加わりました。

しかし、フリードリヒ・ヴィリゲルム1世が国王になると、琥珀の部屋は必要なくなり、琥珀の間のために集められた材料は、ベルリンの兵器庫にしまわれました。もし、琥珀の部屋の噂がロシアの皇帝ピョートル1世の耳に入らなかったら、しまわれた琥珀はそのまま忘れられていたかもしれません。

1716年にヴィリゲルム1世は、外交上の贈り物として、初代ロシア皇帝のピョートル1世に琥珀の間とヨットを贈りました。ピョートルは、そのお返しに55人の騎兵と自作のトロフィーを贈っています。琥珀の贈り物は、18台の台車に載せられ、ケーニヒスベルグ(現在のカリニングラード)とリガ経由で運ばれてきました。

しかし、ピョートルが生きている間に琥珀の間は完成しませんでした。ピョートルの娘、エリザベータは、琥珀の間の琥珀を冬の宮殿のインテリアとして使うことを決め、1746年から、その琥珀がインテリアとして使われた部屋は公式な受け入れの間として使用されていました。9年後、女帝エカテリーナ2世は、琥珀の間を夏の宮殿に移すことを決め、それが実行されました。

琥珀の間が、琥珀の間として完成したのは、エカテリーナ2世が最後に手を加えた1770年。その後、5回改修がありました。1941年にも大規模な改修工事が予定されていましたが、第二次世界大戦により、工事は断念せざるをえませんでした。

エカテリーナ宮殿は、ドイツナチス軍が攻め入り、琥珀の間はケーニヒスベルグに持ち去られてしまいました。琥珀の間は1944年の春までケーニヒスベルグの城に保管されていましたが、その後全く行方が分からなくなっています。今でも琥珀の間は、日本の徳川埋蔵金のように、ドイツで探され続けられているようです。

1970年にソビエトの閣僚会議で琥珀の間を復元することが決められ、1983年に復元作業が始まりました。1996年の時点で、40%が復元され、それまで連邦予算から約700万ドルが費やされました。1999年にロシア文化省とドイツのガス会社ルールガスとの間に琥珀の間復元のために3,500万ドルを寄付する契約が結ばれました。

23年間続いた琥珀の間復元作業は2003年5月に完了し、5月31日にプーチン大統領、ドイツのシュレーダー首相を迎え、琥珀の間オープンセレモニーが催されました。

琥珀の間の天井の高さは、7.8メートル。部屋の広さは100平方メートル。琥珀細工が施された壁三面の面積は86平方メートル。琥珀の間の復元には、6トンの琥珀が使われたそうです。

琥珀の間があるエカテリーナ宮殿は、ペテルブルグ近郊の有数な観光地として、観光客が途絶えることはありません。

2月19日の英タイムズ紙にドイツのある村で、地下20メートルの深さに人工の洞窟が見つかり、そこにドイツ軍が隠したと思われる金が見つかったと報道されました。専門家は、それは、ドイツ軍がロシアから持ち去った琥珀の間ではないかとみているそうです。これまで何度も琥珀の間が見つかったと言う噂はありましたが、本当に見つかったことはありません。さて、今回の発見は本物でしょうか。

画像上:琥珀の間のあるエカテリーナ宮殿
画像下:琥珀の間


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