■“日本の春” 2005.4.4 update

日本では所によっては、もう桜も散ってしまった頃でしょうか。実は、私、かれこれ十年以上桜を見ていません。昨年の秋には、十年ぶりに日本の紅葉を満喫する事ができました。今年はもう無理でも、来年の春あたりに一時帰国して、桜を見たいものです。

そういえば、以前、日本政府からサンクト・ペテルブルグ市へ、桜の苗が贈られたと書いた事がありますが、残念ながらその殆どが枯れてしまったようです。北海道でも育つ寒さに強い品種だったようですが、想像以上に当地は寒かったのでしょうか、本当に残念です。

春といえば、毎年サンクト・ペテルブルグでは、この時期に日本フェスティバル“日本の春”が開催されます。今年で5回目になります。今年は、日露通好条約締結150周年の年ということもあり、中央海軍博物館やロシア国立海軍公文書保管所も参加し、“日本への使節団”という展示及び冊子の出版を行いました。

プチャーチン全権大使率いるロシアの使節団が最初に日本へやってきたのは、寛永6年(1853年)。日本へ来たのも、日本と条約を結んだのもアメリカのペリーの方が一足先だったので、プチャーチンはペリーほど知られていません。しかも、ペリーが大型の気走艦「サスケハナ」を旗艦として4隻でやってきたのに対して、プチャーチン率いるロシア使節団の船は、船齢20年の老朽フリゲート艦パルラーダ号。

もっとも、重要なのは、条約を結ぶまでの過程とその内容です。ペリーが、圧力をかけて条約を取り付けた「砲艦外交」だったのに対し、プチャーチンは相互の信頼、尊敬をもとに対話に徹しました。条約も日本が一方的に認める不平等なものではなく、ロシアも日本に認める、日本を対等な存在と認める内容のものでした。そんな条約が結ばれてから150年です。

この日本フェスティバルには、他にどんな催し物があるかといいますと、戸田(へだ)の子供たちが書いた絵の展示(ロシア使節団の船が天災により沈んだ時、戸田で新しい船を村民の協力を得て造船した。プチャーチンは、その船を「ヘダ」と名づけた)、いけばな・折り紙・切り紙の展示、日本のマンダリン楽団とロシアの楽団とのジョイントコンサート、茶の湯、日本映画上映、囲碁大会総領事杯、押し花展示&実演等などです。

話をまたプチャーチンに戻します。下田での交渉が天災で一時中断したことがありました。安政元年(1854年)12月23日に駿河地方で大地震が発生し、下田が地震と津波で壊滅したのです。プチャーチンが、修理のため西海岸の戸田港へ船を移動中、途中で船が駿河湾に沈没してしまいました。自らも地震の被害を受けていた村民が総出で浜辺に出て応援してくれた事に、プチャーチンは「幕府が直ちに派遣した役人たちは、われわれの不幸に心から同情し、救済に百方手を尽くしてくれた。しかもわれわれが上陸した戸田の地点では大地震のため全家屋が倒壊していた事を考えるならば、われわれに対する日本人の人類愛の心遣いは、賞賛に余りある」と書いています。

のちにプチャーチンは、遺言で戸田村に百ルーブルまで残しています。プチャーチンから何度も話を聞いていたであろう彼の娘オリガが、明治20年(1887年)に、はるばる戸田村を訪れて謝礼金を置いて帰っています。その後も、ロシアから曾孫や親戚が戸田を訪れ、村民との交流が続いているそうです。

画像上:「日本への使節団」冊子
画像下:「日本の春」オープニングセレモニー


<<もどる