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「ラスト・エンペラー」というと、ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画の影響で、清朝最後の皇帝、溥儀を思い浮かべる人が多いでしょう。ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世もラスト・エンペラーとして有名です。ここインドにも、近代まで王朝があり、植民地主義に呑み込まれて王朝が崩壊した歴史があるため、ラスト・エンペラーと呼ばれる人がいました。インドのラスト・エンペラーの名前は、バハードゥル・シャー・ザファルと言います。ムガル王朝最後の皇帝です。
第三代アクバル大帝のときや、タージマハルを建造した第五代シャージャハーンのときのムガル王朝は世界を代表する大帝国でしたが、ザファルが王位に就いた19世紀中葉、ムガル王朝の力は既に地方領主並に弱まっており、その影響力が及ぶ地域はデリー周辺のみという状態になっていました。しかしこの頃、ムガル朝の皇帝は英国人と一応の親睦を保っていました。
しかし、1857年、インド史を一変させる事件が起こります。インド大反乱です。その発生過程については今でも不明瞭な点が多いのですが、一般には英国人が雇っていたインド人傭兵(スィパーヒー、またはセポイと呼ばれる)が反乱を起こしたことがきっかけで、全インド規模の「独立戦争」に発展したと言われています。その際、反乱軍はデリーを占領し、ザファルに反乱軍の旗頭になることを要請します。既に老年にあったザファルは反乱軍の言いなりになり、英国に反旗を翻すことになりました。しかし、反乱は英国軍によって鎮圧され、ザファルも捕えられてしまいます。こうしてムガル王朝は滅亡し、インドは英国の支配下に置かれることになりました。ザファルの2人の息子は死刑となり、ザファル自身はラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)に流刑になり、そこで没しました。
このような過程があるため、ザファルの墓はヤンゴンにあります。今ではミャンマーの地元の人々から聖者として敬われているようです。しかし、ザファルは生前に自分のための墓を用意していました。その墓予定地は今でもデリーに残っています。
デリー南郊に、メヘラウリーという地域があります。メヘラウリーはデリーで最も古い市街地であり、クトゥブ・ミナールという世界遺産に登録された塔もあります。クトゥブ・ミナールのすぐそばには、クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキー(通称クトゥブ・サーヒブ)というイスラーム教の聖者廟があります。クトゥブ・サーヒブは12〜13世紀を生きた強力な聖者で、地元の人々から厚い信仰を受けています。デリーが侵略者によって破壊されるたびに復活して来たのも、クトゥブ・サーヒブのご加護があるからだと信じられています。
ザファルも信者の一人でした。ザファルはこのクトゥブ・サーヒブ廟のすぐそばに宮殿を建て、自身の墓もクトゥブ・サーヒブのすぐそばに用意していました。ムガル王朝の皇帝の多くは自身のために壮麗な墓廟を建てましたが、ザファルが用意した墓は質素なものでした。これは財政的な問題も大きかったと思いますが、当時の流行でもあったようです。しかし、歴史の荒波に翻弄されたザファルの魂は、今でもこの地に埋葬されることなく、異国の地に留まっています。ザファルの墓予定地は土がむき出しになっており、墓の主を待ち続けています。
画像右上:クトゥブ・サーヒブ廟前の門前町
画像左上:廟入り口
画像右中:クトゥブ・サーヒブの墓
画像左下:ザファルの建てた宮殿、ザファル・マハル
画像右下:ザファルの墓予定地
【短信】デリーはますます暑さが増して来ましたが、乾燥しているので不快な暑さではありません。(4/12)
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